« おてがみ-2011.9月号 | メイン | おてがみ-2011.10月号 »

「被災地へ」-救急医療を担う女性歯科医師として-

3,11大震災では全国の会員が現地に赴き身元不明者の確認作業にあたり多大な成果があったことは周知のことである。本県からは日本で初めて女性歯科医師会会員として山口里恵君(戸塚区)が派遣された。今回、女性として母としてそして職業人としてその思いのたけを語った。(以上リード)

「被災地へ」
-救急医療を担う女性歯科医師として-

                           山口 里恵

3・11大震災の初災
「先生、日本歯科医師会からの被災地での身元確認の出動要請が来ました。」県歯科医師会事務局からの電話である。3月23日午後、診療中のことだった。

私は日歯の派遣歯科医師に応募、登録しており、県歯の救急医療委員会の委員でもあり、長年、身元確認の研修も積んできたのだから、おそらく私の出番もあるかもしれないと、と心の準備を整えた。また、そのとき私が思ったことは「これは訓練ではない。実際の現場で私にできるだろうか?」であった。

そのあとは被災地に行くためには何を持っていけばよいか、寒いのか?トイレあるか?患者さんはどうしよう、家族は?犬は?ゴミ出してくれるか?実際のライフラインはどうなのか?沢山の遺体を見てPTSDなどの後遺症になるか?帰ってきてから平常の生活に戻れるのか?など、その日一日、頭の中は次から次へと疑問符ばかりで、一日の仕事を終え心、此処にあらずの状態で家に帰った。


出動への心構え
まず同居の娘に話すと、「いつも災害に備えて訓練を何度も繰り返しているじゃない。なんかあったらが口癖でしょ。有事には必ず役にたつと言っていたでしょう。口先だけで言ってても絵空事よ。こんなときに行かないでいたら女が廃る。行っていらっしゃいよ。」という力強い叱咤激励を受けた。

婿にも「お母さんの留守は僕が守ります。行ってきてください。ね~家族みんなで頑張ろう。」となんだかとてもうれしそう。口うるさい母親がいなくなって平和な時を過ごせると思っていると勘ぐってしまうような何とも複雑なお言葉である。家の偉い方はというと我関せず、まあ言い出したら聞かないんだからと口を出さないで静観していた。

ところが数日後、急に女性の派遣はまかりならんとの通知。女性はトイレがないので派遣できないという日本歯科医師会からの決定があったからである。この数日自分に、ここで頑張らねば女ではないと言い聞かせ、遺書の書き方からおむつをはく覚悟まで(少しオーバーかも)した私の決意はここで潰えたのである。

でも本音では良かったと思った、肩の荷が降りた。一年に一回警察協力医研修会を受け、実際に御遺体を拝見し、歯科所見を確実にとる必要性を実感しているので余計に自信がなくなっていたのである。多くの御遺体を前にして、まして娘を亡くした経験があり小さなお子さん方の遺体を拝見して正常でいられるか実際の所不安はあった。まずは初心に戻って後方支援部に徹することとした。

4月1日から6日まで我が救急医療委員会の精鋭4名が岩手に出陣した。1人ずつが大きな車輪のついたバッグ2つ、登山用のリュック、財布などの入った貴重品のショルダー、ディスポの白衣などが入ったスポーツバッグを持ち神奈川県貸与の防災服に身を包み警察庁の護送車に荷物とともに乗っている様子はさながら出動というより出陣というほうがあてはまっているようないでたちである。

情報が錯綜しており考えられるありとあらゆる状況に対応できるように荷物は大量であった。毎日連絡を取り声を聞いていると、まるで戦場に息子を送り出した母の心境である。無事に作業を終えて帰ってくれることを願っていた。


一転、警察歯科医の任務へ
無事の帰還、報告会も終わりさて自分の診療所の存亡をかけ本業に力をいれなければならないと思っていたところまた電話である。「先生、日本歯科医師会から出動依頼です。」再度の日歯からの出動依頼を受け前回涙をのんだ私の悔しさを知っていた県事務局からの打診だった。

「え・・・私でもいいのですか?女性はだめだって言っていましたよね。」と私。「今回は大丈夫だそうです。」と県事務局。また私の頭の中ではどうしよう、でもここで断ったら後悔するしまず娘に顔向けができなし今決めなきゃ女が廃ると一瞬の間に判断した。

「行きます、行かせてください。」家に連絡すると娘はがんばれ、行っていらっしゃいよと一言。きっと私の気持ちが分かっていたのかもしれない。よっしゃ女の底力見せてやろうじゃないの、前回とは気持ちが違っていた。前回派遣された委員の話を聞き、事情も少しわかり、現地を見た者と見ていない者とでは壁を感じていた。娘が言うように百聞は一見に如かずである。

ライフラインが回復した仙台に宿泊し、気仙沼(所要時間3時間)南三陸町(2時間)石巻(1時間半)の3か所の遺体安置所を御遺体があがったところに行くという情報は事前に入ってきた。震災から4か月も経ち復旧されており夏ということもありそんなに荷物は多くない。ただ日本赤十字救急法指導員である私としては自己完結でいかなければいけないと教育されている。白衣や帽子、ミラー探針ピンセット、長靴など考えられるありとあらゆる物は持った。


出動前の出来事
7月15日(金)出動と決まった。患者さんからの反応を心配していたが、患者さんに事情説明すると頑張っていってきてくださいと逆に励まされた。ありがたく思うと共に感激し、どきどきしていたが、なるようにしかならないと開き直った。

父と娘の菩提寺の和尚に助言を求めに行くと人を助けに行くのだからしっかり行っていらっしゃいとのお言葉をいただいた。私は生きている人を診るのではなく御遺体を診るのにと違和感を感じていると、それを察した和尚は亡くなっても人は人、人を助けるのはあなたしかいないと背中を押してくれた。

よしふっきれたと思っていると11日(月)戸塚警察署鑑識から電話があった。独居老人が亡くなっているのが発見され本人確認をしてほしいという依頼である。それも急に2件も。不思議な話ではある。派遣前の訓練と覚悟し戸塚警察署に向かった。警察協力医研修会を思い出し、心を強くして御遺体に向かった。

訓練ではなく実際の検視である。前の晩御遺体を目の前にどう自分は行動するか?正視できるのかと悩んだ。当日は戸塚署初ということで関係者の方も多く女先生かという声がなんだか悔しく思え負けないぞという私の気の強さにより死後所見をとった。

無事ご本人確認をして鑑定書を作成した。いざ宮城県に出陣である。15日朝保育園に送って行く途中で3歳の孫はただならない私の顔を見て「ばあちゃんどこいくの?」と聞いた。小さな手を私の顔につけて。「亡くなった人を助けに行くの。亡くなった人はお口聞けないからばあちゃんが代わりにお口の中見てお家に帰してあげるんだ。」なんとも簡略化した答えではあるが孫は「頑張って行ってきてね。ふうちゃんいい子でお留守番してるから」思わず抱きしめた孫の体は小さくでも確かに私の宝物である。この自分の命より大切な宝を失くし今困っている人が私を待っている。行かねばならぬと孫に誓った。


そして被災地へ
15日午後19:30防災服に身を包み宮城県歯科医師会に横須賀市の協力医である福本義克君と共に到着した。震災直後から宮城・福島は独自のスタイルで身元確認作業を行っていた。死後口腔内記録の書式も日本歯科医師会のものとは特に違うものである。他県から入った先生がたとの軋轢もあったと聞いていた。挨拶をした時宮城県歯本部長は我々の防災服をみてまずかっこいいですねとの一言。本音はいかばかりか推測の域を超えないが女性なのだという空気が私を包んだ。

レクチャーは2時間ほどあった。内容は被害の程度や御遺体の状況など専門的なことから電話のかけ方、名刺の渡し方まで事細かなものである。電話のかけ方は昔母にとことん教え込まれたのだけどなあと思いながら聞いた。

我々で22回目の受け入れということで、中には協力医の研修を受けずに参加した先生もおられ受け入れ側としては基準を決めておきたいのだと理解した。ただ女性だからと区別を行うことには憤慨したのは事実である。御遺体は発見されたらすぐに運ばれ検視検案となるが1日0~1体という少なさであるという説明だった。


現地での確認作業
毎朝8時宮城県警察庁本部に集合。気仙沼、南三陸町、石巻のどこに行くかその日に決まる。基地は石巻にありプレハブ小屋が並びその隣に仮埋葬場所がある。広いグラウンドに土葬されてある小山が並んで花が枯れていた。まるで戦争の後のような荒廃したイメージを持った。

初日は2時間かけて南三陸町で1体、30分かけて移動し石巻で5体の歯科所見採取と1体の身元確認作業を行い仙台に1時間半かけて戻った。水上遺体が多くヘドロの中に埋まっておられるため御遺体を洗ってからの検視となる。お口の中も汚れているため洗浄に時間がかかる。もちろんどこに行っても「先生御遺体の損傷激しいですが大丈夫ですか?」というやさしいお言葉をかけられた。大丈夫ではありませんと答えたらどうなるのだろう、私は覚悟しているわよと心の中で叫びながら微笑んでいるしかなかった。

外のテントで周りから見えないようにして検視が行われた。風が通らず暑さ湿度はサウナなみである。実際4か月もたっているためお顔での判別は不可能で、お口の位置を探すのも大変である。ご家族にお返ししたいからお口を開けてお口の状態を見せてねと声をかけながら開口器で開けていく。すると気持ち解ってくれるのかと思うほど開けたままになってくれた。顔と口腔内写真、レントゲンを撮りその後デンタルチャートを作成する。途中異様な臭気と多くの震災ハエと呼ばれる巨大なハエ、高温多湿で少しめげそうになったがなんとか終了した。終わった後のビールの味はまた格別である。


作業の終了を迎えて
2日目南三陸町で1体、石巻で4体。ここで変なことに気がついた。確か0~1体ですと説明受けたはずなのになんでこんなに御遺体が多いの?少し気になり再び父と娘が眠っている菩提寺のお寺に早々電話した。和尚曰く、娘を亡くした私は痛みを知っているためみんな私に送ってほしいと思って出てくるのだろう、そして三途の河原で石を積んで遊んでいる私の娘の頭をなでて「お母さんに世話になったよ。」といってあの世に行くのだとの和尚の答えに気持ちが吹っ切れた。

よっしゃそれならがんばるしかないじゃない、何人でも来い、戻してあげるわよご家族のもとに。確かに検視検案、身元確認が終わらなければ火葬にはできないということはご家族のもとには帰れないのかもしれないと納得した。

心を強く持ち3日目である。なんといままでお呼びがなかった気仙沼で5体揚がったというので3時間かけていき、早く終わったからと石巻に2時間かけて移動し1体合計6体の歯科所見とり1体の身元照合作業を行った。気仙沼での離断遺体1体(頭部がないためカウントしない。)を含めるとこの日の検視検案は7体である。そのころ宮城県歯では驚いていたそうである。7月末で日歯からの応援はなくなることが決まっているのにこの御遺体の数である。

4日目5日目は2体ずつと少なかったが総数21体(離断遺体は含まない)。私たちの送迎をしてくれ現地では手助けをしてくれた宮城県警の警察官には最近では1番、歯科所見採取(あるいは確認作業)も早く最高でしたとお褒めのお言葉をいただいた。しかし私はたかが5日間で現実の世界に戻れるが、4カ月もの間ずっと御遺体と向き合い尽くしている警察官はあっぱれ最高以外のなにものでもないと心から思った。

現在生前資料が津波で流されたりして少なく、御遺体は身元不明者として友引の日に火葬するそうである。友引は友を一緒にあの世に連れて行ってしまうという言い伝えで火葬はしないことになっているので火葬場が空いているための処置とのことだった。


県歯への帰還
5日目現地での作業終えて県歯科医師会の救急医療委員会にその足で参加した。同僚たちはやさしく迎えてくれて仕事をやり終えやっと戻ってきたという気持ちがあふれでた。ここから私の県歯での仕事が始まったわけである。家に帰り何も変わっていないことに安心し娘や婿はよく無事に戻ったと喜んでくれた。孫の寝顔をみて思わず抱きしめた。

この子が大きくなったときこの東日本大震災についてどう考えるのだろう、自分の祖母が少しでも人の役に立つような仕事をしたと思ってくれるだろうか?この経験を風化させずにいかなければならない、いつ次に私たちの地域が被災県になるかもしれないのである。


帰還後の一考
また自分の仕事に戻り毎日が過ぎていく。患者さんからはお疲れさまといってもらった。ことさら自分の患者さんの生前資料カルテやレントゲンの管理はしっかりしなければ患者さんを守ることにはならないと強く考えるようになった。いまでもたまに孫は「亡くなった人助けにまたいくの?」と聞いてくる。

私は後遺症も出ずに元気そのものであるが実のところは本当のところはどうなのだろうか、今のところは微笑みを浮かべて何も変わっていないと返事を返す。もう二度とあんな悲惨な光景を見たくないと、日本の平和を願ってしまう。かわいい孫といつまでも一緒につましくも仕事をして食べていければと今は考える。今回会員では初の女性の参加であったが無事仕事を終えホッとしているのが本当のところである。

女性ということで最初は受け入れてもらえないところもあった。神奈川県の名の元に参加したので何しろ名に恥じないようにという気持ちがあった。男女参画といわれているが男性とは違って女性にしかできないことや気持ちがあることが今回参加してわかった。

母性というやつなのだとはおぼろげに認識したがそのことを忘れないでこれからも男性と肩を並べて歩いていけたらと思っている。女性だって覚悟してやれればできるのであるといいながら今日も買い物の重たい荷物を偉い方と婿をこき使って運ばせている私である。

HOME 院長あいさつ 医院案内 診療案内 アクセス 診療カレンダー リンク

About

2011年09月22日 09:34に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「おてがみ-2011.9月号」です。

次の投稿は「おてがみ-2011.10月号」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35